
石井直方 博士
東京大学名誉教授
東京大学特任研究員
東京大学社会連携講座 講座長
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これまで、足腰の筋肉の量と筋力を維持したり増強したりすることが健康長寿のカギとなることを、筋肉の機能と健康の関係に基づいてお話ししてきました。
今回は、筋肉量や筋力を維持・増強することが実際に寿命を伸ばすということを示す科学的証拠(エビデンス)について考えてみましょう。
太腿が太いと死亡リスクが低い
脚の筋肉量と寿命との関連性を示唆する研究の代表例として、デンマークのグループが2009年に英国医学会誌(BMJ)に報告した研究が知られています。
彼らは、心疾患、がん、糖尿病の既往歴のない平均年齢46歳の男女それぞれ約1400名の集団を対象に、1987年から88年にかけて体格、体組成、血圧、生活習慣などを調べ、その後12年半にわたり追跡調査を実施しました。
そして、その間に虚血性心疾患やその他の原因で亡くなった方の人数や特徴を分析し、中年期以降の死亡リスクに何が関連しているかを調べました。
その結果、大腿基部の周囲長が死亡リスクに深く関連していることがわかりました。

図に結果の一例を示します。グラフの横軸は大腿周囲長(cm)、縦軸は12年半の間に亡くなった方の割合(原因によらず)から算出した「全死亡リスク」を示しています。
死亡リスクは、集団全体の平均値である大腿周囲長55 cm での死亡率(亡くなった方の割合)を1として相対値で表しています。またこの値は、喫煙、閉経(女性)、身体活動量、教育水準、ウエスト周囲長、体格指数(BMI)、体脂肪率、身長を共変量として調整してあり、ほぼ大腿周囲長のみに依存した値になっています(重回帰分析という手法を用います)。
ここで注意が必要なことは、BMIと体脂肪率についても調整してあるため、大腿周囲長は結果的に大腿部の筋肉量を主に反映していることです。
調整をしない場合には、大腿周囲長が55 cm 付近を超えて大きくなると、同時にBMIや体脂肪率も大きくなるために死亡リスクもやや上昇し、「U字型」に近い関係になります。
つまり、「太腿さえ太ければ肥満であってもよい」というわけではありません。一般向けの解説ではこのあたりが省かれているケースが多く、誤解を招く原因になります。
グラフから、男女いずれの場合にも、大腿周囲長55 cm を起点として5 cm 細くなると死亡リスクが約2倍に増え、5 cm 太くなると死亡リスクが半減することがわかります。ただし、デンマーク人はそもそも体が大きいため(平均身長が男性で176cm)、この関係をそのまま日本人に当てはめることはできないでしょう。
筋肉の量と寿命の関係を結論づけるのはむずかしい
このデンマークの研究は、中年期の大腿周囲長から、その後の約10年間の死亡リスクを予測できることを示唆しています。しかし、この研究期間に実際に亡くなった方の割合は、男性で約18%、女性で約11%と、ごく限られています。これは「早期死亡」(Premature death)に相当し、その直接の原因は主に虚血性心疾患です。
したがって、「その後の70歳代、80歳代ではどうか」、大腿部の筋肉が「ほんとうに寿命を伸ばすのか」ということに関しては結論づけることはできません。このデンマークのプロジェクトが今も継続中であれば、これらの課題に対するそれなりの回答が得られるのではないかと思いますが、残念ながら完全に終了し、元データも破棄されているとのことです。
加えて、中年期の測定結果が30〜40年後にまで影響を与え続けるとは考えにくいため、たとえ継続されていても、測定そのものを定期的に繰り返してゆく必要があります。
こうした問題がありますので、現在までの疫学的研究のデータから「筋肉が多いとほんとうに長生きできるのか」を結論づけるのは、実際にはむずかしいといえます。

高齢期でも同様の結果になる可能性は高い
しかし、年齢が20歳程度高い年代を対象として調べた場合でも、同様の結果が得られる可能性は高いと思います。
高齢期の健康寿命や寿命に影響を強く及ぼす要因は、これまで述べてきたように脳血管疾患、フレイル、がんなどです。そしてこれらの病態にはいずれも、加齢に伴う筋萎縮(サルコペニア)が深く関連しているからです。
これまでの研究から、脚の筋肉量の減少が糖尿病の発症要因となることがわかっています。糖尿病は「糖化ストレス」による動脈硬化を介して、脳血管疾患をはじめとする多くの合併症を引き起こすだけでなく、老化全般にも深く関わります。
フレイルの根源的要因のひとつはサルコペニアです。さらに、筋肉から分泌される生理活性物質(マイオカイン)の中に“SPARC”という、大腸がんの発症を予防する効果をもつものがあると考えられています。
したがって、脚の筋肉量が少ないことは、脳血管疾患、フレイル、がんに罹患する可能性を高め、高齢期の死亡リスクを高めることが予測されます。
上記のデンマークの研究と同様のプロジェクトが、平均年齢70歳の集団を対象として行われることが期待されますが、そうした研究の結果が出るまでにはあと20年くらいかかるかもしれません。